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SympathyとIdentity。夏目漱石『草枕』考。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

ここ信州・小諸での昨日の風は、いつになく強かったです。日に日に厳しい寒さにもなってきています。塾生およびその親御さん、また、この塾長日記をお読みくださっている皆様におかれましては、どうぞくれぐれもご自愛ください。

 

さて、今回は夏目漱石『草枕』を再々読して、また新たな発見をしましたので、そのお話を。

 

塾長は気づきました。

気づいてしまいました。

夏目漱石『草枕』は、単に鴨長明『方丈記』“本歌取り”である*ばかりでなく、夏目漱石『方丈記小論』(英文)*における文学的思索や、さらには、例の、漱石留学時にインド洋上で残した英文メモ*における哲学的思索の、肉薄した延長線上に創作された、謂わば“実践編”であったということ*に。

 

*1 塾長日記2023/11/9「世界文学としての『方丈記』Vol.2」の註3にて指摘。すでに先行研究あり。

*2 塾長日記2023/11/9「世界文学としての『方丈記』Vol.2」の前半参照。

*3 塾長日記2023/9/7「洋上の漱石。無限遠点で交わる空と海」参照。

*4 塾長は門外漢ゆえ、この点に関して指摘している論文等は寡聞にして知りません。どなたかご存じでしたら、ぜひお教えください。大変に興味があります。

 

証拠を挙げます。すべて『草枕』第6章の前半からです。

何ヶ所か(第6章だから、6ヶ所くらい?)引用して、コメントを加えてみます。

 

第1段落より

雲と水が自然に近づいて、舵をとるさえ懶(ものう)き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境に漂い来て、果ては帆みずからが、いずこに己れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ[……]

 

これはインド洋上の英文メモと内容や表現が酷似していますね。雲のある空と海の水との不分明な境(すなわち水平線)と、自己(ここではそれが白い帆=船に託されている)との違いを見つけることに苦労しています。インド洋上の英文メモに描かれた、長椅子に横たわって鉛色の空と海とを凝視して自らも《dullness》(気怠さ)に陥っている人物の状況とかなり一致していると言えるでしょう。

 

 

第2段落より

自(おのず)から来りて、自から去る。公平なる宇宙の意(こころ)である。

 

これは方丈記「不知(しらず)、生まれ死(しぬ)る人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。」と酷似しています。画家ポール・ゴーギャンの作品名『われわれはどこから来たのか。何ものなのか。どこへ行くのか。』のようでもあります。漱石は方丈記のこの文言と似た文面の手紙を正岡子規に送ってもいます。

 

 

第3段落より

彼ら[詩人と画客=引用者註]の楽(たのしみ)は物に執着するのではない。同化してその物になるのである。

 

これは『方丈記小論』の英文およびインド洋上の英文メモと考え方が酷似しています。とりわけ後者のなかで語られている、空と海と自己の溶融した感覚は、この同化の感覚と近しいと思います。

 

 

第4段落より

されど一時に即し、一物に化するのみが詩人の感興とは云わぬ。ある時は一弁の花に化し、あるときは一双の蝶に化し、あるはウォーズウォースのごとく、一段の水仙に化して、心を沢風(たくふう)の裏に繚乱せしむる事もあろうが、[……]

 

夏目漱石『方丈記小論』の英文で、鴨長明ワーズワス(ウォーズウォース)を比較して論じています。ワーズワス自然のなかに霊魂を見いだし、鴨長明自然慰めを求め、漱石自身は自然死んだものとして冷徹に捉えています。

 

 

第5段落より

余は明かに何事をも考えてはおらぬ。またはたしかに何物をも見ておらぬ。わが意識の舞台に著るしき色彩をもって動くものがないから、われはいかなる事物に同化したとも云えぬ。

 

色彩という形で視覚についてが意識的に言及されています。これはインド洋上の英文メモにおける《contemplation to be conveyed to a realm of visionという箇所と合致します。この『草枕』では、意識の舞台(映像の領域=視野)へと運ばれてくる熟考(熟視)するべきものが不明瞭ゆえ、同化そのものも不分明であると語られているのです。

 

 

第6段落より

普通の同化には刺激がある。刺激があればこそ、愉快であろう。余の同化には、何と同化したか不分明(ふぶんみょう)であるから、毫も刺激がない。刺激がないから、窈然として名状しがたい楽(たのしみ)がある。[……]目に見えぬ幾尋の底を、大陸から大陸まで動いている潢洋たる蒼海の有様と形容する事ができる。

 

これも、インド洋上の英文メモと内容および表現が酷似しています。漱石によって「大陸から大陸まで動いている潢洋たる蒼海」として想起されているのは、インド洋のことなのではないかと思えてきます。また、主体と対象物との間でsympathise(sympathize)[共感する]こととidentify[同化する]こととは、ほぼ同義で使われているといってよいのではないでしょうか。

 

 

有名な江藤淳『夏目漱石論』によれば、このインド洋上の英文メモはプロイセン号の船中で書かれたとのことです。帰りは日本郵船の博多号でしたので、行きの船でのことと分かります。

たしかにこの江藤淳『夏目漱石論』は様々な点で優れていて、塾長も面白く読みました。とはいえ、率直に申せば、塾長は彼の漱石論をあまり深くは信用していません。というのも、この論のなかで彼は、「『首くくりの力学』といつたような身の毛のよだつような冷酷な文章」などと、全く漱石の『吾輩は猫である』におけるユーモアを解していないような噴飯物の発言をしているばかりか、『坊っちゃん』[『坊っちやん』『坊つちやん』]のことを最初から最後まで、すべて『坊ちやん』と誤記し続けてもいるからです。

江藤淳はこの英文メモを残したときの漱石のことを、「デツキチエアに横たわつて、印度洋の水を眺めていたこの時の漱石の心は、恐らく二ケ年の英国留学中最も平静であつたに違いない」などと述べていますが、これも実に怪しいように思います。なぜなら、横浜港を出港した行きの船・プロイセン号のなかで、漱石はひどい船酔いに苦しんでいたと伝えられているからです。

この英文メモは、心の平静というよりはむしろ、朦朧とした意識の抑圧や溷濁のただなかでの小康状態(《dullness》の状態)において書かれたものと捉える方が妥当なのではないかと思います。主体と客体の区別や空と海の境界線が曖昧となり、期せずして自己と他者の間、他者と他者の間の同化共感が実感できたと捉える方が合理的でしょう。そうした体験が『草枕』において活かされているということです。

 

 

結論を急いで言ってしまえば、こうなります。具象や人情の要らない空っぽな対象物としての自然および外界との同化。すなわち、無との同化。無との共感。無を観想観照すること。そしてそれ(その感興)をそのまま描き出すこと。おそらくそれが『草枕』の主人公の目指した《非人情》《出世間》の境地なのでしょう。

主人公の画工《余》が、霊台方寸のカメラ(心の眼)で、最後に那美の表情のなかに読み取った《「憐れ」》も、そうした《無》(=巧まなさ)のことだったのかもしれません。

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