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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
一昨日の塾長日記で、ベルクソン、プルースト、ソシュール、バシュラール、フロイトなどを挙げ、二十世紀初頭は「時間」の発見の時代であったのではないかということを述べました。
その後、ふと、夏目漱石もそうした時代にあって、そうしたことを考えていたのだろうか、と思いました。
調べると、きちんと、「漱石とベルクソン」という論文があると分かりましたので、簡単に読んでみました。
塾長はすっかり忘れていたのですが、漱石の『道草』のなかで、しっかりベルクソン哲学のことが(ベルクソンという名前こそ明示されてはいませんが)書かれていました。
時間の捉え方そのものと、その時間のなかでの記憶の想起、ということとが、当時の時代的な問題意識として広く共有されていたようです。
塾長はここで、例の、あの有名な、ベルクソンの、平面と逆立ちした円錐形の図(知っていますよね?)に関して、さらに、ジャン・リカルドゥーの語るものと語られるものとの時間軸のシェーマ(これも知っていますよね?)とを並置して考えることを提案しておきます。
平たく言えば、ベルクソンの『持続と同時性』とは時間と空間のこと、例の図も時間と空間のこと、ソシュールの通時態と共時態も時間と空間のことを表しているのですし、時間の中でのイマージュの感知を、バシュラールやプルーストやフロイトは述べているのですから、――とりわけ、プルーストやフロイトは、特別な時間の中(フロイトの場合は夢の中なども)でのイマージュの感知を述べているのですから――やはり時代的な問題意識の共通性がここに広く読み取れます。漱石も、実はそうした哲学的主題を自伝的と言われる小説の中で扱っていたのですね。
まとまらない話なのですが、備忘のために、とりあえず記しておきます。