- カテゴリ
皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
雨ですね。新聞のコラムに立葵のことが書いてありました。梅雨葵とも言うそうです。
このあたりでも毎年この時季にまっすぐに背筋を伸ばした立葵の花を見かけます。今日は立葵の葉を雨が頻りと叩いています。
さて、最近のわれらが「学びの庭」の中学生の授業では、定期テスト対策の小テストも組み込みながら指導をしております。100点満点で点数化し、弱点の発見・ポイントの強調・分かったつもりを無くすための繰り返しなどを、おこなっています。
そんななか、国語の教科書で、「(顔を)しかめる」「…にもまして」(中1)、「はぐくむ」「ぶっきらぼう」(中2)、「いとまごい」「はばかられる」(中3)などの言葉の意味をきちんとつかめていない塾生が多いことに気づきました。
本来、こうした言葉は、学校で習う、塾で習う、ではなく、まずは、本人と、家庭が育んでいくのが基本です。
これは決して塾の責任放棄ではありません。もし塾で言葉の意味を一つひとつ教えていくとするならば、膨大な時間がかかります。とても週に数回数時間の指導でどうにかなるようなものではありません。言葉とは、いわば、その人の人生です。日々の生活のなかでどんな言葉を使って、感じ、考え、表現しているかということが、その人の人生の豊かさをそのまま表しているといっても、さほど言い過ぎではないかと思います。それを小手先の学校頼み、塾頼みでどうにかしようとすることには、無理があります。また、塾生の皆さんも、自分の感受性や思考を、他人任せにしてはいけませんね。自分から、豊かに、感じ、考え、表現していく必要があります。
だから、いけないのですよ。
たとえば、何を食べても「おいしい/まずい」だけ、何を見ても「かわいい/キモい」だけ、何を尋ねられても「別に」「特にありません」(無言、首をひねるだけ、など)、のような状態は…。
そこで、われらが「学びの庭」の塾生をはじめ、多くの中学生に提案です。
この地域の中学生は、学校に毎日《生活記録》を提出しています。そうした提出記録のない中学生は、自分のために日誌をつけてみてください。そして、その文章で記述する爛を、ぜひとも語彙(および論理性)の豊かなものにしてみてください。
語彙に関しては、「面白かった」「嫌だった」などのディジタル的で無味乾燥とした言葉を排し、どう面白かったのか、どう嫌だったのかを、別の言葉で言ってみることから始めてください。(論理性に関しては、文と文の間を「なぜなら」「たとえば」「しかし」「そこで」などの接続語でつなぐことから始めてください。)
以前に当“塾長日記”でも次のようなことを紹介した記憶があります。国語教科書の詩から派生して、ブレインストーミングで「うつくしいもの」を描き出してもらったとき、「夏のプールの水面のきらめき」ですとか、「廊下のゴミを目ざとく見つけてさりげなく拾う友達の姿」ですとか、そうしたものが多数挙がりました。こうした、「水面(みなも)」「きらめき」といった、日常語を一歩踏み越えた語彙、「目ざとく」「さりげなく」などの、ニュアンスを精緻に伝える形容詞など、言葉への意識やこだわりを持った表現を、ぜひとも日常生活の中に組み入れていくことを、少しばかり試してみてください。
もののとらえ方、見え方、世界のあり方そのものが、変わっていきますよ。