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《観照=テオーリア》することについて。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

先日、今回の大学入試共通テスト国語・第1問(論説文)を授業で取り扱ってみました。

 

単に一つの文章を読解するという単純な出題ではなく、二つの文章を俎上にのせそれぞれ読解したのち最終的に比較・検討・解釈までするという、最近の傾向ともいえる出題でした。

具体的には、俳人・正岡子規の書斎のガラス障子の話から、建築家・ル・コルビュジエ「窓」をめぐる考察の話までが取り上げられている文章と、同じくル・コルビュジエの同じ箇所を取り上げ《観照》することについてが考察されている文章の二つでした。

 

選択肢の吟味がなかなか難しい問題だったのですが、塾長の好きな分野の話でしたので、実際にあらかじめ解いてみたとき、心躍らせながら読み進めることができました。

 

ここでは、そのとき気になった言葉について、(つれづれなるままに)語らせていただきます。

 

主に、《見る(眺める)》という言葉と、《観照》という言葉についてです。

 

とりわけ、二つ目の文章において、壁で視界を限定することによって《動かぬ視点》を獲得し、それによって本来の《見る》《テオーリアtheōria=観照》(客観的に事物をとらえること[セオリーtheory=理論につながる])《瞑想》、《沈思黙考》へと至るという話が興味深かったです。

 

《見る》ことは、洋の東西を問わず、《考えること》《思うこと》《瞑想すること》とつながっているのでしょう。

日本では古来、《眺む》という言葉があります。もちろん、《物思いに耽る》という意味です。小野小町の“わが身世にふる…”で有名ですね。

西洋ではいま上で見た《テオーリア》という言葉があります。フランス語でも、《contempler》[熟視する、観察する、瞑想する、観想する]という言葉があります。英語でも、《regard》[見る、凝視する、考慮する、考察する]という言葉があります。他にも、《reflect》[反射する、熟考する、静かに考える]という言葉もあります。(フランス語のréfléchirにも、反射する、熟考するなどの意味があります。) 

 

視点を定めて《見る》ということは、自己の内面をも見つめる機会となるようです。

 

ちなみに、《窓》という日本語は、《目》[マ]《戸》[ト]に由来するとのこと。見るための扉ということでしょうか。

蛍の光、窓の雪、ではありませんが、殊に窓と雪は相性が良いようです。

清少納言は、雪のいと高う降りたるには「香炉峰の雪は簾(みす)をかかげて看る」という漢詩を引いて、蔀(しとみ)を上げさせて見ました。

川端康成は、『雪国』の冒頭を、当初は(冒頭ではない箇所で)「國境のトンネルを拔けると、窓の外の夜の底が白くなった」と書いていました。

まさに、共通テストの一つ目の文章でも言われていた、フレーミングと、スクリーン化です。

 

古今東西の人々は、窓を通して《見る》ことで、さまざまな観照、沈思黙考、瞑想、思索、思慮、省察をしてきたようですね。

 

そう考えると、学校の先生がた。もしかしたら、窓の外をぼんやり眺めているような生徒さんたちを、むやみに注意してはいけないのかもしれませんよ。

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