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写真を語るな。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

われらが「学びの庭」の、上田西高校、佐久長聖高校受験生は、全員合格しました!

 

おめでとう!

 

さて、昔の塾長の読書日記を漁っていたら、倉石信乃『反写真論』について取り上げたものが見つかりましたので、ここに打ち直してみます。

 

 写真をめぐる言説が、ノッケから「写真を語るな」とは、実に衝撃的だ。

 著者によると、写真は「既に語っている」。しかも、「語られたものを語っている」。だから、それについて語るのは、「情報重複的」であり、「詮なき暇つぶし」なのだそうだ。とすると、いまその暇つぶしについてさらに語ろうとしているこの読書日記は、相当にメタメタな暇つぶしだと言えるだろう。だが、どうしても語らずにはいられないのだ。この挑発的で刺激的な書物について。

 およそどのページを開いても眩暈のするような警句に満ちているのだが、とりわけ、金村修『Keihin Machine Soul』について扱った箇所に最も深く感銘を受けた。倉石によると、ふつう写真に撮られた電線や線路は、フレーミングの外側を想起させることで、「無限感」や「非在の郷愁」を呼び覚ますという。ところが、この写真家は、そうした連続性や延長の観念を完全に拒否する。憧憬や思慕といった人間的な情景を忌避し、フレーム内の有限で閉塞した殺風景、たとえば、廃棄された交通標識や壊れた踏み切りの溜まり場へと向かうのである。Landscape(作品化された眺め)ではなく、glance(一瞥)へ。持続ではなく一瞬へ。回路ではなく短絡へ。ここではないどこかではなく、空虚の現前するいま・ここの事態へ。倉石は声をあららげる。「ここ、この地点で、とまれみよ。その瞬間、一瞥で」。

 もし語りの熱気それ自体が語る躍動を「詩」と呼ぶならば、倉石の言説はまごうかたなく一級品の「詩」であるだろう。とはいえ、写真は芸術ではないと主張する前衛芸術家たちと同様、彼もおそらく自分の文言は断じて「詩」ではないとかたくなに言い張るに違いない。だから、いま・ここでは、ただ次のようにだけ言うべきなのだろう。すなわち、この書物は写真について何かを分かりやすく解説してくれる写真論などではない。その意味で、まさしく“反”写真論なのだ、とだけ。

 

最後のあたり、筆が急いでいますね。多分、紙幅の関係で、焦って終わらせたのでしょう。ともあれ、『反写真論』、いまでも大変に刺激的な内容ですので、塾生の皆さんにもお薦めします。たしか著者は長野県出身だったように記憶しています。

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