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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
中3総合テストの結果が続々と返却されています。
塾長への報告でも、98点、94点、93点、…たいへんによく頑張って、結果もついてきている答案を、日々、目にすることができています。
もちろん、素点では厳しく見える点数を取ったとしても、それだけで落胆する必要はありません。
塾の志望校判定も参考に、伸ばせる分野をきちんと見定めて、自分の目標に向けて、毎日、コツコツと積み上げていくことが肝心です。
受験はまだ何ヶ月も先なのですから。
今日できることを、今日やれるかどうかです。
さて、先日の授業で、《間違えること》の大切さが話題となりました。
民放テレビの某アナウンサーが、「慧眼」を最近まで「すいがん」だと思っていたと言っていました。言葉を伝えるプロにしてそうした間違いがあるのですから、生徒・学生の皆さんは、間違えること自体を恥ずかしがる必要はありません。きちんと意識し、考え、理解し、訂正し、記憶し直していけば良いだけのことです。
慧眼。
読めますね?
そうです。「けいがん」です。
塾長にとって「けいがん」は、……「炯眼」、……こちらの漢字なのですが。というのも、……
ジュリアン・グラック著『アンドレ・ブルトン 作家の諸相』(人文書院、永井敦子訳)。
この素晴らしい本(翻訳も含めて)の帯に、「死後ますます人々を呪縛する/ブルトンの磁場を/半世紀前に予言した/グラックの炯眼」という惹起が書かれていたのが、強く記憶に刻まれているからです。
(実は、さらに言えば、塾長にとっては、高校生でこの言葉を知った頃には、「烱眼」という旧字体のほうで触れていたのですが。)
ところで、この、塾長愛読の、第一級の素晴らしい翻訳書ですが、にもかかわらず、ここにもまた、「間違い」があるのでした。
ジュリアン・グラックは、アンドレ・ブルトンの作品において「真の強直痙攣[une véritable tétanisation]」に達した言葉というものについて、こんなふうに語っています。まずは永井敦子訳から見てみましょう。
言葉はわれわれの目には指で弾かれるクリスタルのように、最後には壊れるくらい振動するように見えるのだ。[168-169ページ]
しかし、塾長の見立てでは、この文の比喩におけるクリスタル(水晶玉)は、指で弾かれているのではありません。もしクリスタルを指で弾いてみたとしても、おそらく爪が痛くなるだけで、決して最後に壊れるなどということはないでしょう。ありますか? ないですね。
塾長が当該箇所を翻訳してみます。
私たちにとって、その言葉は、ちょうど旋盤の鉤爪(かぎづめ)の一突きのもとにある水晶のようなもので、あとほんの少しでも力が加われば粉々になってしまうギリギリのところで顫(ふる)えているように見えるのである。[塾長試訳、意訳部分あり]
公正さを期すために、原文も載せておきます。
[…]qui semble vibler pour nous, comme un cristal sous un coup de doigt, à la limite même de la rupture.
ここで塾長は別段間違いを指摘して悦に入りたいのではありません。この箇所は、『ナジャ』の末尾で「美とは痙攣的なものであろう。さもなくば存在しないであろう」[La beauté sera CONVULSIVE, ou ne sera pas.]と述べるブルトンにとっても、その箇所について、「『ナジャ』を締めくくるこの文言にのみ、私は同意することを躊躇する」と述べるグラックにとっても、たいへんに重要だと思うから、指摘したまでのことです。
さて、話を戻して、要するに、超一流の研究者の先生でさえも、こうして間違えることがあるのです。(塾長はここでは間違いと決めてかかって話をしています。もし異論がある方は、仰ってください。さらに考え直します。) 塾生の皆さんは、大いに間違えていいんですよ、いや、むしろ、間違えなければいけませんよ、とさえ塾長は言いたいのです。
これまでに何度も引用したことがありますが、「学びの庭」の塾生が残した名言です。
「何も間違えない人は、人生を間違えている。」
要するに、超人でもない限り、「間違えない人」というのは、「何も自分からチャレンジしていない人」ということですよね。「そういう人生(生き方)ではいけない」、「間違いや失敗を恐れずに、果敢にチャレンジすることが大切だ」ということです。
至言ですね。