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チャイコフスキー交響曲第6番《悲愴》の魅力。ホルンのゲシュトップフトについて。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

冬ですね。朝、が植木にびっしりと降り、が辺りに濛々と立ちこめていました。チャイコフスキーの曲が似合う季節かもしれません。(交響曲第1番『冬の日の幻想』など。)

 

 

さてさて、塾長は驚きました!

いま、コンピュータで《チャイ5 魅力》と検索すると、何と、我らが「学びの庭」塾長日記《チャイ5第2楽章の魅力 その1》が、トップに出てきます。

 

素人が書いている鑑賞文のなかでは、単なる紹介・解説にとどまらず、かなり内容に踏み入って(勝手に)論じている文章なので、塾・教育関係の方のみならず、クラシック音楽ファンの方にも読んでいただけているということなのでしょうか。

うれしい限りです。

 

 

そこで、……というわけでもありませんが、あえて今回はちょっと放言をしますので、どうぞご容赦を。

 

 

早速なのですが、塾長は、実は、チャイコフスキー交響曲第5番に関しては、第2楽章が大好きなのであって、たとえば第4楽章フィナーレは、それほど好きではありません。(チャイ5フィナーレ好きの方、すみません。)

なぜなら、第2楽章には3音(青年)2音(恋人)の目くるめく葛藤があります*が、第4楽章にはそれがほとんどないからです。どうぞ聴いてみてください。あの第4楽章の冒頭は、すでにデトックスしてしまったあとの“凱旋”でしかありません。サウナから出てきて、スッキリ、さっぱり、ツルツル笑顔。……塾長としては、これでは少々退屈なのであります。

*1 塾長日記2023/10/19『チャイ5の魅力 その1』2023/10/21『チャイ5の魅力 その2』参照のこと。

 

 

そして、そのことは、次の交響曲第6番『悲愴』においても言えることかもしれません。……と、ここからが本題です。(前置き、長いなぁ。)

チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』において、葛藤は、せいぜい第1楽章までで終了。

その後は、4分の5拍子の、不安定とはいえ単調な、繰り返しの多いワルツ(第2楽章)

弦が上っては下りる。木管が上っては下りる(超芸術トマソンか!)。喇叭(ラッパ)の群れが、“チャッチャカ、チャッチャカ”、能天気に行進の足取りを刻む。……これを反復するだけの(つまり葛藤ではなくただの鏡写しの分身との対話とも、ただの自己分裂者の独語とも言えるような)単純明快なマーチ(第3楽章)

……終楽章アダージョ・ラメント―ソ(第4楽章)においてさえも、そうした事情は例外ではありません。……と、ここからが佳境です。

 

第4楽章冒頭。音楽史上もっとも夢見心地で温かな至福を感じさせる旋律の一つであるといっても過言ではないあの第1楽章中間部の旋律が、この第4楽章の冒頭では一転、悲痛に引き裂かれた悲劇的な様相へと変貌します。第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン(およびヴィオラとチェロ)が、掛け違えた釦(ボタン)のごとく、分裂して響きます*。反復されるときには、あたかも螺旋階段を互い違いに登っていくのが見え隠れするかのような、不安定でぎこちない形で上昇します。その後、文字通り悲愴でラメント―ソ[哀しみに沈んだ様子]な下降型のパッセージの合間に遠く悲しげに響くのは、フルートとバスーン(のち、バスーンのみ、さらにホルンへと引き継がれる)の長い嘆きの溜め息です。

*2 そのため、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンはステージ上で左右に分かれて配置されていた方がよいと思われます。 

このぎこちない上昇と下降と溜め息という動きは、楽章中、何度も何度も、ひたすらひたすら、引き摺るように繰り返されます。こうした流れのなかでは、主旋律の合間に入ってくる旋律も、もはや対旋律ではなく、主旋律をやや遅れて気だるげに間延びして響かせるだけです。

最後の盛り上がりには、トランペットやトロンボーンも加わっていきますが、ここでも、音楽のありようは、葛藤・発展というよりは、同じものの反復肥大化深化に過ぎないのです。このやるせなさの徹底ぶりこそが、《悲愴》の最大の魅力なのかもしれません。

最後、それでも、何としてでも燃え上がろうとする、弦による逆巻き上昇を試みる炎。いや、それをも、2番ホルンと4番ホルンのゲシュトップフト*による金属音が、まるで鉄板を叩きつけるようにして完全に封じ込めます。

*3 ホルン奏者が右手をベルの奥に入れて、ビーンという金属音に近い閉塞音を出す奏法。ゲシュトップ。ハンドストップ。

燠火の炎が何度燃え上がろうとも、無機的な鋼の板は、断固として、完膚なきまでに、それを封じ込めるのです。を前にしたの儚さ、を前にした人間の小ささ、……さまざまな言いかたがあり得ますが、どうやらチャイコフスキーの交響曲の境地は、ベートーヴェンのそれのような人間性の偉大さへの讃歌とは正反対のところにあるようです。

ですから、この掟の門を前にした絶望の場面は、そういう決然としたde-press(活気を弱める、下に押しつける≒depression[押し下げること、憂鬱症、鬱病])の表現でなければ、そのあとのを告げる弔鐘としての銅鑼の響きも肩透かしになってしまい、虚しい印象しか残せません。大変に重要な表現です。

 

ところが、あろうことか、世にある大半のオーケストラの演奏は、このホルンのゲシュトップ音ほとんど全く聴こえないのです。フォルテ2つもついているというのに。

ありえません。そんな演奏は、ありえません。

これでは、この曲“全体”がもはや台無しなのです。

弦によるの炎は、無機的な人工音によって再起不能なまでに打ちひしがれ、最後に銅鑼がピアノひとつ(ピアニシシモくらいかと思ったら、意外とピアノひとつだけ)で、ひそやかに臨終を告げる。

 

グワーンンン……ン。

「ご愁傷さまでした……」

 

と、ならなくては*4

 

*4 このパターンは(ゲシュトップフトのホルンはバストロンボーン、銅鑼はティンパニと、楽器こそ違いますが)、チャイコフスキーの幻想的序曲『ロメオとジュリエット』のラストと同じですね。

 

にもかかわらず、この部分がきちんと演奏できている楽団は、非常に稀です。世界的に有名な指揮者でも、世界屈指の名門オケと謳われているような楽団でも、このゲシュトップ音については、ほとんど聴こえません。巨匠の皆さん、きちんと楽譜を読んで、チャイコフスキーの意思(ここでは遺志と言ってもよいでしょう)を酌んで、仕事をしてください。(……と、偉そうに上から目線。素人に怖いものなし。)

塾長が聴いて、好感が持てた演奏は、世界的には特に評価はされていないであろう某交響楽団のものです。指揮者もきちんとホルンに指示を出しています。残念ながらフォルテ2つの音には聴こえませんが、それでもゼンマイ仕掛けのアブラゼミ(?)のようなジーンンンンン……ンという低音F#の金属音がはっきり聴き取れます。

 

塾長は、こういう丁寧な音楽づくりに心から感服するのであります。決して音楽家の肩書きに称賛をおくる者ではありません。

 

 

芸術も、人間も、そもそも肩書きで判断するようなものではありませんね。むしろ、肩書きは一番怪しげなものです。昨今では東大教授のなかにさえも、変チクリンな経済社会モデルを掲げてみたり、無理筋のフェミニズム思想を振りかざしてみたり、意見の異なる者に罵詈雑言を浴びせてみたりする人がいるようですから。自分の目で、耳で、頭で、心で、常に澄んだ鏡に照らして、総合的に判断していきたいものです。

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