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いやあ、怖かったです。ホント……。
皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
書道塾の入り口の廂の下に、いつの間にか、スズメバチの巣を作られてしまっていました。
今朝、退治をしたのですが、なかなか恐ろしいものでした。
(本当は、生態系はなるべくそのままがいいと思っているのですが、塾の生徒さんたちに危険があるので、これはやむを得ない処置でした。)
巣を除去したあとでどこからか帰巣したスズメバチもいたのですが、数匹、取り逃してしまいました。
果たして彼らは今後、どうするのでしょうか。
また、どこかに新たな巣をつくるのでしょうか。
他のスズメバチの巣作りを手伝うのでしょうか。
ふらふらと漂泊者として残りの生を全うするのでしょうか。
アリやハチはコロニーをつくって、社会性があると聞いたことがあります。
しかし、別のコロニーの中に入り込んでコミュニケーションをとってうまくやっていくことまで、スズメバチにできるのでしょうか。
塾長は、日本社会のことを考えてしまいました。
誰だかが、日本は超個体なのだ、と言っていたことも思い出しました。
個人個人が別々に生きているのではなく、まずは、日本というものが一つの個体としてあり、その一部分を成すかのように個人個人が生きているという……。
(ボルボックスみたいなものです。)
だからこそ、昔のあの“特攻”だとか、“お国のための殉死”だとかもあり得たのだ、と。
いまの日本はどうでしょうか。
“超個体”だからこその、“お互いさま”の精神であるとか、“互助”のシステム、“和を以て貴しとなす”精神であるとか、個性よりも協調性を重んじる気風、……様々な良きものがあったのではないでしょうか。
いまの日本は、見る影もないですね……。
コロニーに別の個人が入ってきて、うまくいくのでしょうか。
コロニーそのものが劣化しているのではないでしょうか。
フランス革命以後の近代的合理主義精神とやらに毒されて、自分個人や、自分の子供のためだけに生きるのが当たり前になってしまった私たち。
ジャン・ジャック・ルソーが『エミール』のなかで言っていますね。(めんどうなので、記憶による引用で済ませます。)
私は、社会が一単位の《何分の一》なのではなく、自分が一単位の《一分の一》なのだ、と。
これが、近代以降の病巣の始まりなのではないでしょうか。
…とりとめもないことを考えてしまいました。
パリ五輪の開会式のあの乱痴気のゴタゴタも、同じようなところに根があるような気がします。