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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
夏期講習も佳境に入っています。
高校生の大学入試問題の英語長文で、《20世紀最大の発見とは?》という内容のものを読んだのですが、これが塾長の目下最大の関心事、夏目漱石の《縹渺》体験とあまりにも一致していたので驚いています。
簡単に概要を記します。(わざと和訳をつけないので、皆さんも意味を取ってみてください。)
「20世紀最大の科学的発見とは何か?」という問いに、内科医のLewis Thomasはこう断言します。
The greatest of all the accomplishments of 20th-century science has been the discovery of human ignorance.
サイエンス・ライターのTimothy Ferrisもこれに同意して、次のように言います。
What is new is our awareness of it[=human ignorance], and it is this[=our awareness of human ignorance], more than anything else, that marks the coming of age of our species.
筆者はこうした考えが生じた理由を以下のように語ります。
The discovery of our ignorance followed ievitably from discoveries of the vastness of the universe.
そして、天文学において何千年も昔から使われている天球儀(celestial globe)について語り始めます。これは人間の知の万能感(人間はすべてを知ることができるという考え)のいわば象徴的模型です。
その後、ガリレオの望遠鏡を経て、ハッブル宇宙望遠鏡に至り、人間は不可知な存在の領域(人間はすべてを知ることはできないという考え)を認めざるを得なくなるのです。
つまり、ここで言っている「無知」とは、「未知」ではなく、「不可知」のことなのです。
フェリスは哲学者のKarl Popperの言葉を引きます。
The more we learn about the world, and the deeper our learning, the more conscious, specific, and clear will be our knowledge of what we do not know, our knowledge of our ignorance. For this, indeed, is the main source of our ignorance ― the fact that our knowledge can be only finite, while our ignorance must necessarily be infinite.
嗚呼、何と漱石と似たことを云っている事か!
漱石はイギリス留学時、インド洋上で、水平線の彼方で溶け合う空と海とを凝視しながら、こんな英文メモを残しています。
While I gaze at them, I gradually lose myself in the lifeless tranquillity which surrounds me and seem to grow out of myself on the wings of contemplation to be conveyed to a realm of vision which is neither aesthereal[sic] nor earthly, with no houses, trees, birds and human beings. Neither heaven nor hell, nor that intermediate stage of human existence which is called by the name of this world, but of vacancy, of nothingness where infinity and eternity seem to swallow one in the oneness of existence, and defies in its vastness any attempts of description.
(拙訳) 海と空を凝視していると、余を取り囲む生命なき静寂のなかに余自身が徐々に失われてゆく。そして余は観照の翼に乗って自己自身から抜け出し、《幻視》の王国へと運び去られてゆくかのように感じる。その王国は審美的なものでも世俗的なものでもなく、そこには家々も木々も鳥も人もいない。天国でも地獄でもなく、ましてや、《この世》の名で呼ばれているところの、人間存在の中間的な領域でもなく、むしろそれは、無限と永遠が存在の単一性のなかに人を嚥み込んでしまうかのような、空虚の、無の王国である。そしてそれはその縹渺たるさなかにおいて、いかなる叙述の試みをも拒むのである。
(※今回、この漱石の英文におけるvastnessを、彼の文章を読み解くキーワードの一つでもある「縹渺」という語で訳出してみました。これは塾長のアイディアです。おそらく、どなたもなさっていないものと思います。生意気にも、漱石研究をほんの一歩押し広げたものと自負しております。万が一、すでにどなたかがこのvastnessを縹渺と訳出していらっしゃっているようでしたら、ご教示ください。この記述を削除いたします。)
(※この「縹渺」体験については、来月28日に長野漱石会で塾長が行う講演でさらに踏み込んだ発表をいたします。乞御期待。)
漱石も、空と海という区別しやすいはずのものが水平線の彼方では不分明となることを語っています。無知(不可知)の領域への言及です。
友人のAくんも、物理学の《分かる》を突き詰めていくと《分からない》に辿りつくと語っていました。
しれっと何でも分かったような顔をしている人や、無謬性を絵にかいたような不遜な人を塾長が信じないのも、こうしたawareness of ignoranceがあるからかもしれません。
大学入試の英語長文は、ティモシー・フェリスの次のような一文で締めくくられます。このでの「無知」は、「未知」の意味合いが強いようにも思いますが、いずれにせよ、まるでガウディのサグラダ・ファミリアが完成してしまっては魅力を失ってしまうが如き真理です。
No thinking man or woman ought really to know everything, for when knowledge and its analysis is complete, thinking stops.