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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
国立の奈良教育大付属小学校で、独善的な教師たちが学校長のガバナンスが及ばないような形で必修授業を長年に渡って行ってこなかったというニュースは驚愕でしたね。書初め文化など、日本に定着している習字(書道)をないがしろにし、君が代(国歌)も教えない、こういう法令を守らない独善的で文化破壊主義的な教育者は、即座に公教育から退場してもらいたいものです。教師が教室で得手勝手に自分(たち)だけの正義を貫いたら、それは正義の人ではなく、洗脳者ないしは独裁者です。(もしどうしても自己流でやりたいならば、辞表を出して、私塾なり何なりを開いて、そこで思う存分やれば宜しい。)
さて、最近の「学びの庭」・高校部は、大学入試の共通テスト問題や、大学入試の二次試験過去問題などを多く演習解説しているのですが、話題の多くがこれまでの塾長日記で取り上げたものであることにも、今更ながら、塾長は驚いています。
特に、某大学の二次試験問題では、英語でempathyという語の意味が分からないと全体像がつかみにくい長文が課されていました。これは、sympathyやPathétiqueを話題にしていた塾長日記が役に立ったかと思います。
また、論説や小論文の、写真をめぐる言説が常に一歩遅れを取っているということに関しては、連続して塾長日記で、《写真を語るな。》《写真は生か死か。》《写真はもはや写真にあらず。》など、まとめて話題にしていました。
普段からこうした議論に慣れている人は、スムーズに問題の内容に入っていけることでしょう。ぜひ、『お役立ち塾長日記』を読み返してみましょう。文字通り、“お役立ち”なのです。
ちなみに、今年の共通テストの論説文のトピックや小説文の文章そのもの、とても面白かったですね。現在の高2生のみならず、高1生、中学生も、問題は解かずとも、本文を読んでみることをお勧めします。
論説文で取り上げられていた教会におけるモーツァルトのレクイエム演奏。塾長はその昔、モーツァルトの命日に、吉祥寺の音楽喫茶で朗唱込みのモーツァルトのレクイエムを聴いたことがあります。たしかにあれは、宗教儀式を擬似的に味わったのか、それを含めた芸術鑑賞だったのか、考えてしまうようなものでした。
小説文のほうも、自分の身体が自分の家であるという演劇人のおばの発想は、まるで樽に住んだ哲人ディオゲネスのそれのようで、奥が深いと感じました。もちろん、少し違った意味合いでこのおばは言っているようですが。