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超然と人間を押す牛。紫色の凄まじい火花。

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つい先日(先週末の土曜日)は、夏至でした。なんでも、皇居の真上を太陽が通過するとのことで、ちょっとした話題になっていましたね。

 

皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

昨日は久しぶりの長野漱石会。

長野市まで、講演を聞きに行ってまいりました。

 

手紙で味わう漱石の世界

   秀明大学教授 長島裕子先生

 

いくつかの主要な時期の漱石の手紙から見えてくることを追っていく内容でした。

①ロンドン留学中の、妻・鏡子に宛てた手紙(明治34年、35年)

②帰国後、帝大・一高講師時代の弟子たちへの手紙(明治39年)

③大正期、教え子や弟子たちへの手紙(大正2年~5年)

 

なかなか興味深い内容でした。

たとえば、留学先から妻に宛てた手紙(明治34年)のこんな一節。塾生の親御さんたちには、もしかしたら耳が痛いかも(?)しれませんが、……。

 

「飯を食はして着物をきせて湯をつかわせさへすれば母の務は了つたと考へられてはたまらない御頼まふしますよ」

 

だいぶ以前ですが、「学びの庭」でアンケートを取ったときのこと。

「ご家庭で、お子さんの教育のために親御さんがやってあげていることは何ですか?」

という問いに、

「塾への送迎」

とだけ書かれている回答があったことを、塾長は記憶しています。

親が子供にやってあげられることが、あたかも車の運転だけであるかのようなお答え。

お忙しいのは分かりますが、それでは親としてあまりにもお淋しいことです。

 

特に、お子さんの言葉(語彙、論理力、情操、感性、表現力……つまりは、すべての教科の成績にも通じる)に関しては、親御さん(決めつけはしませんが、多くの場合、母親)の責任の部分が大きいです。

まずは、日ごろから、様々な言葉で豊かに会話をし合うと良いかと思います。

 

いけませんよ、親御さんが、スマホ片手に、「はやく!」「ダメ!」「わかった?」なんて貧相な語彙だけで、お子さんに接していては。(まさか、いませんよね。流石に。)

 

さて、話を漱石のことにまで戻しますが、……

その後の、弟子たちへの手紙もまた、興味深かったです。

朝日新聞の専属作家になる直前(明治39年)の鼻息の荒い手紙。晩年(大正2~5年)の諭すような手紙。

特に有名な、久米正雄・芥川龍之介に宛てた二通の手紙には、こんなふうに書いてあります。

 

「たゞのやうに図々しく進んでいくのが大事です。」

「世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。」

は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」

 

これらは大正5年(1916年)の手紙の文言です。

長島先生は、今回の講演で、後に芥川龍之介が「或阿呆の一生」(昭和2年1927年遺稿)のなかで、こんな風に語っているということを指摘しています。

「架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」

芥川の「或阿呆の一生」を読んでいて、この火花を、漱石のあの手紙のなかの火花の話の火花のことかもしれないと思い起こせる読者は、一体どれだけいるのでしょうか。参りました。

 

以下、塾長の考えです。

もしかしたら、この芥川の「或阿呆の一生」における告白は、“人生の最終段階においても、自分は、漱石先生のおっしゃるような、根気強く人間を押して行くにはなれなかった”という、彼の懺悔だったのかもしれません。長編小説を書きあぐね、型にはまったマンネリズムの小説しか書けなかった自分は、せめて一時の火花でも構わないから、それが欲しかった、という……。

 

実際、漱石が芥川らに手紙を送った大正5年、芥川は短編「鼻」「芋粥」「手巾」「煙草と悪魔」などを執筆しています。

 

「鼻」(大正5年2月)「芋粥」(大正5年9月)は、どちらも《主人公の意識の逆転劇》という、同工異曲と言っても一向差支えがないほどよく似たドラマの展開の仕方(ドラマトゥルギー、作劇術)を採用している作品です。

 

大正5年10月の「手巾」のなかでは、そうした自分のマニエリスムを先回りされてスウェーデンの劇作家ストリンドべリに「メッヘン(臭み)」と指摘されたという経緯が語られています。芥川はマンネリと臭みから抜け出そうと藻掻いています。(しかし、結局、芥川は最晩年までそのストリンドベリの亡霊に悩まされることになります。遺稿「或阿呆の一生」のなかにも、ストリントベリイと題された章があります。)

漱石にも、大正5年8月の手紙の中ですでに「君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。決してある程度以下には書こうとしても書けないからです。」とさえ言われています。“手腕”とは、マニエール(手法)のことです。ある程度以下にはならない、とは、逆側から言うならば、このままでは、ある程度以上にもならない、ということだ、と芥川は気づいたのではないでしょうか。

いずれにせよ、大正5年の段階で、ストリンドベリのみならず、最晩年の漱石(漱石はこの大正5年の12月に亡くなっています。)にも、芥川のマンネリズムはすでにお見通しだったようです。(遺稿「或阿呆の一生」の「先生」(=夏目漱石)と題された章では、法や正義の女神テミス然としたイメージが語られています。法[≒漱石]の前に引き出された芥川自身の裁きの場のようにも思えます。)

 

さて、講演会で、火花については、分かりました。では、については、芥川は何か語っていたのでしょうか。そう思って見渡したところ、なんと、驚いたことに、すぐに見つかりました。「煙草と悪魔」です。

 

「手巾」と同じく大正5年の10月に発表された「煙草と悪魔」では、悪魔と契約(賭け事)をしてしまう商人の男が出てきます。話の筋としては、商人は知恵を絞って難を逃れ、悪魔も退散し、事無きを得ます。しかし、語り手のシニカルな口調は、「明治以後、再(ふたたび)、渡来した悪魔の動静を知ることができないのは、返す返すも、遺憾である。」と話を閉じています。まるで、商人の側よりも悪魔の側にこの世の中(芥川自身?)が染まってきていることを暗示しているかのようです。芥川は大正5年のこの段階で、早くも自分が本質的に漱石先生がおっしゃる《超然と人間を押す》にはなれない存在だという弱音を吐露していたのかもしれません。

 

芥川が、その後、結局逃げて、人間ではなく文士(谷崎潤一郎)を相手に、愚にもつかない(?)論争(小説に筋が必要か不要かなどの言い争い)を繰り広げたり、徐々に物語(説話)的結構を持たないアフォリズム的ないし断片的な作品へと移行していったりしたのも、そうしたストリンドベリや漱石の軛(くびき)から解放されるためだったのかもしれません。芥川は最初からその点で自分は脆弱な人間である、実は作家としては劣等生である、と自覚していたのでしょう。

 

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