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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
さて、皆さん。以前に塾長が、チェーホフの戯曲をあらかた読んでいた塾生の話をしたことを、覚えていらっしゃいますでしょうか。(塾長日記 2020/3/27付) 塾の生徒さんたちと偶数・奇数の話をしていたら、「チェーホフの『かもめ』のなかにもそういう偶数・奇数をめぐるセリフがある」と教えてくれた、中学1年の生徒さんのことです。
そのことを話題にした日記のなかで、塾長は、「少なくとも『かもめ』だけは読み直してみたい」と明言していました。
そうしましたら、先日、塾生の一人に、「塾長先生、まだ『かもめ』読んでないんじゃないですか~?」と冗談めかせて言われてしまいました。
いえいえ、さにあらず。塾長、その後しっかり読み直していましたよ。有・言・実・行。それも、『かもめ』だけでなく、『プロポーズ』『熊』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』などなど。チェーホフの主要な戯曲は読んでしまいました。あとは、小説でいくつか面白そうなものをつまみ食いで読んでみようかと思います。
(高校卒業のとき、親友のA君が文集にチェーホフの短編「灯火」から引用をしていました。何十年遅れですが、「灯火」、読んでみたいです。)
今回は、チェーホフの戯曲作品群を読んでいて気づいたことを一つだけ。皆さんの役にも立つのではないかと思います。
彼の戯曲は様々なことを教えてくれます。人生、愛、結婚、労働、幸福、運命、人間、若さ、成功、挫折、哀しみ、喜び、…。
そうしたなかでも、とりわけ、忍耐というものに肯定的な意味を見出していく過程を描き出している点で、彼の作品は数多の文学作品のなかでも群を抜いているのではないでしょうか。そして、肯定的にひたむきに働くことが説かれます。
『かもめ』のなかではニーナが、『ワーニャ伯父さん』のなかではソーニャが、『三人姉妹』のなかではイリーナが、『桜の園』のなかではトロフィーモフが、それぞれそうしたことを高らかに宣言しています。
たしかに、100年以上も前の作品群ゆえ、現代人が読んでそこから何らかの教訓のようなものを得ようとするときには、当時とは違った尺度で解釈しなおす必要はあると思います。ですが、間違いなく、一見ツライと思えるようなものをも広く肯定する強さというものは、チェーホフ的な価値観の一つとして見直されていいものなのではないでしょうか。
(偶然最近読んだ河井寛次郎の「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」でも、自然のなかに〈食う‐食われる〉の「不幸」ではなく、〈養われる‐養う〉の「幸せ」を見る考え、戦争末期の空襲のなかにあっても「不安」のままで「平安」でいる心構え、この世はこのままで「大調和」と感じる境地のことが語られていました。矛盾をも含めて世界を肯定する〈大いなる心〉の獲得ですね。)
さて、困難や苦難を前にしたチェーホフの登場人物たちと、日々大変な量の課題を目の前に山積みにされているあなたたち生徒の皆さんとは、どこか相通ずるものがあると思います。もちろん、無駄に苦しむ必要はありません。しかし、逃げていては、実りは得られないのです。うまくいかなければ、方法を変えて、ことに当たればいいではないですか。塾長は皆さんに、目の前の課題を一つひとつ楽しむこと、つらいことでも、仲間と共有して明るく乗り越えていくこと、乗り越えたときの喜びを深く味わうことを、大いにおすすめします。
逃げて得られた表面的な幸せには、怠惰な気持ちでぬるま湯に浸っているかのような罪悪感が伴います。乗り越えて獲得した本質的な幸せには、深い自信と誇らしい幸福感とがあふれています。塾生の皆さんは、ぜひ、後者の、素晴らしい黄金の果実の滴りを、日々のたゆまぬ努力と創意工夫の末に、心ゆくまで味わってください。