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読書の意義は《役に立つから》ではない。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

今日は長野県公立高校入試の前期日程当日ですね。

皆さん、自分の持てる力を発揮してくれることを願っています。

 

 

さて、最近、中学生の多くの学年で、齋藤孝の文章の読解作業を行いました。

 

・段落ごとに、最重要箇所(重要概念の書かれているところ)を見極めること。

・難解な語句は言い換えて理解すること。

・指示語の指示内容を把握すること。

・比喩(たとえ)を正確にとらえて説明すること。

・問題文と本文の語句の対応関係に気づくこと。

・選択肢の主旨を吟味すること。

 

などなど、読解の基礎実地活用して血肉としてもらいました。

 

 

とはいえ、さらに、もう一つ。この齋藤孝の文章を選んだのには理由があります。

内容が、強く読書を勧めるものだったからです。

 

 

さて、では、そもそも、読書の意義とは本当は何なのでしょうか。

読書の意義を生徒さんのなかには、そこで得た知識なり何なりが生活や人生に《役に立つから》と考えている向きがあるかと思います。

確かにそういう面もあることでしょう。

しかし、塾長の考えは違います。《役に立つ》とか、《役に立たない》とかいうことは、すなわち、読書を功利的な価値に置き換えてとらえている発想です。

それとは異なり、塾長は常々、読書とは、そうした浅薄な功利主義には還元されない《体験》そのものだと捉えています。

その本を読んだときの状況、思い、空気感。そのとき感じたこと、考えたこと、また、その温度感。かけがえのない記憶とともに、そうした読書の体験そのものが、そのままで意義深いのです。

こうしたことは、資本主義の、受け手は何にも考えなくてよいサーヴィスや、効率主義の、コストパフォーマンスやタイムパフォーマンスに、生まれ落ちた瞬間から馴らされてしまっている平成生まれ令和育ちの子供達の多くには、分からないことかもしれません。

極端な話、読書は《役に立》たなくてもいいのです。

だって、《体験》なのですから。

 

わざとわかりづらく話しています。

読書の意義とは、結局、何なのでしょうか。

塾長が何を言っているのか、ぜひ、よく考えてみてください。

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