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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
目下、「学びの庭」の模擬試験の最中です。
試験監督をしながらですが、時間がありますので、今日2本目の塾長日記です。完全な、随想、思いつきの言の葉たちです。どうぞ、ゆる~いお気持ちでお付き合いください。
今日は11月3日。
志賀直哉の小説に、『十一月三日午後のこと』というものがありますが、ご存じでしょうか。
そのなかでは、ある二つのものが重ね合わされて描かれています。
「私」は、散歩をしています。そして、二つのものに出くわします。
行軍演習で斃れた兵隊の様子。従弟と買いに行った鴨が半死半生の状態であったこと。
「私」は、この二つを、頭のなかで重ね合わせてとらえることになります。
これは、志賀直哉の有名な作品『城の崎にて』とほぼ同様の感覚や心境と言えるでしょう。
たしかそこでは、蜂や鼠やイモリの生死が、自分や人間全体の生死と重ね合わされていました。
昔、塾長が大学生のころ、初めて家庭教師をしたときに、中学生の生徒さんと一緒に、この『城の崎にて』の段落まとめをしたことがあります。
そのときに気づいたのですが、志賀直哉のこの小説は、ただの一つとして主題と無関係な文、無駄な段落がありませんでした。短センテンスで知られる志賀直哉の簡潔な文体というのは、構成や段落においてもそうであったのだと驚いたものです。
さらに、「学びの庭」を開塾後、高校生の塾生のリクエストで、志賀直哉の短編『荒絹』を分析読解演習したこともあります。
志賀直哉の文章を大胆にもさらに彫琢してみたり、描写のカメラワークの妙を発見してみたり、と、なかなかスリリングな特別授業となったことを記憶しています。
戦後、志賀直哉は日本の公用語をフランス語にしようなどという不可解千万なことを言いました。しかし、彼の遺したこうした短編小説は、さまざまなことを考えさせてくれる良質なテクストであることは、間違いありません。
いわば、志賀直哉という鏡に照らして、読者一人一人が、自分というもの、自分が何を考えられるのかを捉えるものとしても、すぐれた作品だと思われます。
いまの塾生たちとも何か読書会でもできればと常々思っているのですが、なかなかそうした機会に巡り合えませんね。短い作品で、あることないことを語ってみる。とても面白い試みですよ。
(塾長はよく大学・大学院生のころ、そういうことを仲間内で愉しみました。友人・知人のまとまった考えやものの見方にも触れられ、たいへんに新鮮な思いもしました。良い思い出です。)