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日本の文化は、言葉に宿る?

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

今日は11月3日文化の日ですね。もともとは、明治天皇の誕生日で、天長節として祝っていた日でもあります。

 

さて、最近の高校生英語授業で扱っている長文に、こんな内容のものがありました。

日本の文化を理解する上では、日本人の特別な感情とともにあるいくつかの言葉を知ることが有効なのではないか、というものです。

そこで挙げられている言葉の例が、「もったいない」「あまえる」「なつかしい」「かわいそう」だったのですが、いかがでしょうか。

なかなか面白いラインナップだと思います。

「もったいない」は、ワンガリ・マータイ女史のスピーチでも有名になった言葉ですが、他の言葉も含めて、ある種の共通項が見えてくるように思います。

高校生の生徒さんたちにも訊いてみたのですが、残念ながら、なかなか気づけなかったようです。

皆さんは、いかがでしょうか。

 

塾長が思うに、ここに挙げられた日本の言葉は、すべて、対象物に対して自己の感情がいわば入り込んで表出されている言葉であるような気がします。

 

これらを英語で表現するならば、次のように考えていくことになるでしょう。

もったいない = 「私が」何かを無駄だと感じる。

甘える = 「私が」誰かか何かに頼る。

懐かしい = 「私が」誰かか何かをしみじみと思い出す。

かわいそう = 「私が」誰かか何かを憐れむ。

このように、まずは主体の「私」というものがあって、そこに気持ちが宿っていく、そういうとらえ方で表現していくことになるかと思います。

 

それに対して、日本語では、

もったいない = モノが無駄になったり浪費されたりすることへの言及。 

甘える = 相手の気持ちや行為などが変わるように望むこと。

懐かしい = モノや出来事そのものが、しみじみと思い起こされること。

かわいそう = 人やモノや出来事の状態や性質についての言及。

などのように、「私」というものとは関係なく、むしろ、対象物の中にこそ、その感情の根っこが宿っているように思われます。

 

特に、「懐かしい」は、助動詞「れる」「られる」に自発の用法があることからも分かるように、多くの場合、対象物そのものが主語として使われて前景化し、本来の懐かしがっている主体であるはずの「私」は、後景へと下がっていきます。

「往時のことが懐かしく思い出される」などという場合です。このとき、思い出しているのはもはや「私」ではなく、あくまでも、「往時のこと」のほうこそが、実体的な主体として、「私」を通して「思い出され」ているのです。

また、「かわいそう」は、語源は「かわいい」です。そもそもが、対象物の性質を言っている言葉と言えます。「かわいい(可愛い)」も、「かわいそう(可哀そう)」も、主体よりも対象に寄り添った言葉なのです。

 

古来より、日本の文化は、「和」の文化「慮(おもんぱか)りの文化」です。「俺が」「俺が」と個人の権利や自己主張ばかりを声高に発する西洋の近代的文化とは、根本からして違う部分を持っています。

それは、ときには、何ごとにも同調圧力が働いてしまうですとか、あまりにも空気を読み過ぎてしまうですとか、悪い面もあるかもしれません。

しかし、そこには、自己主張と個人の権利ばかりを声高に叫び続けてきた近代人が忘れてしまった多くの学ぶべきことがあるように思います。

 

単純にどちらかを否定するなどということなく、時と場に応じて、先人の知恵からは、常にさまざまなことを学んでいきたいものだと思います。

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