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高校「現代の国語」と「言語文化」。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

早くも立春ですね。

小諸東中学校では、中学3年生の総合テストも終わり、今日は、いままさに、私立高校入試に取り組んでいる生徒さんもいます。誰もがぜひとも実力を発揮してくれることを望みます。

 

さて、今回は、高校の「現代の国語」問題について、一言触れておこうと思います。

 

来年度より、高校では、「国語総合」に代わり、「現代の国語」「言語文化」が新設されます。

前者は「新聞や企画書など『論理的、実用的な文章』を扱う」と規定されており、後者は「小説、詩、短歌、漢文など『古典や近現代の文学作品』から言葉の理解を深める」とされています。

文科省としては、前者において情報分析力などを身に着けてほしいようですが、現場では「『現代の国語』で小説を扱いたい」との声もあり、採択トップの「現代の国語」の教科書(第一学習社)には、5つの小説・文学作品が掲載されているそうです。

一方で、文学作品は全く扱わないと公言している高校もあるようです。

いずれにせよ、はたして、こんなことでいいのでしょうか。

 

そもそも、なにゆえに学校教育の中で「小説」「古典」等の文学作品を読むのでしょうか。

たしかに、不思議な気がします。理系の人たちには不要なのではないかという声も聞かれます。

 

もちろん、塾長の考えは、さにあらず。

他者を理解するためには、論説文も、小説文も、古典も、どれも必要なのです。

また、これからの社会では、文系こそ理系理系こそ文系の素養が必要なのだとも思います。

(いえ、文系・理系という言い方そのものが、もはや時代錯誤だとも思いますが。)

 

たとえば、太田道灌の「山吹」の逸話(《蓑=実の》一つだに…)が示唆してくれていることは、単に、人の上に立つ殿様が教養のないことを嘆き猛省したというだけでなく、貧しき一般庶民にでさえ、深い教養やウィットの精神があったということです。その貧しき庶民でさえもが持っていた素養を身につけるチャンスを失う教育カリキュラムというのは、それ自体、実に貧しいものです。

 

日本は歴史や文化が深い国です。ですから、古典も含めて、当然学ぶべきこともたくさんになります。学生の皆さんとしては大変でしょうが、それは、文化や歴史の浅い国や地域からしたら、とても羨ましがられる類いのことなのだとも思います。(引き合いに出してしまいますが、アメリカ合衆国なんて、ほんの数百年の歴史と文化しか持っていない国ですよ。もっと日本人は誇りと自信を持って、お国自慢をすればいいと思います。)

昨今の文科省の方針や、大学入試の共通テストの内容から見る一連の流れは、日本の高等教育が、教養や素養を切り捨てた即席のテクノクラートを育成したいだけの方向に舵取りをしているようにしか見えません。

テクノクラートも必要です。

情報量、論理的思考力、処理スピード、解決能力。もちろんこれらも非常に重要なものだと思います。

しかし、それだけを追ってしまうならば、最初から知能指数で支配階級と被支配階級を定めるディストピアを作ってしまうほうが手っ取り早いということにもなってしまいかねません。あるいは、官僚機構、役所仕事、危機管理、医療システム、教育システム、流通、インフラ、…こうしたあらゆる仕事は、すべてAIにとって代わってもらえばいいということになってしまうではないでしょうか。汚職もない。ヒューマン・エラーもない。無駄な人件費もかからない。そちらの方がよっぽどマシということになってしまうのではないでしょうか。

日本人が大切にしてきた、情緒は、協調は、モラルは、努力は、感性は、美徳は、…そうしたものの価値は、どこに行ってしまうのでしょうか。

虫の音をノイズと認識しない脳を持つ感性の日本人は、もはや絶滅危惧種扱いなのでしょう。

三島由紀夫が憂えた状況が、まさに訪れているように思います。

 

これは、具体的な“終わりの始まり”なのではないでしょうか。

塾長はこうした時代の流れに抗います。

知識も、思考も、感性も、すべてを捨てません。塾生の中に、それらすべてを育んでいこうと思っています。

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