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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
塾長は以前から、日本語の《自称詞》について興味関心がありました。
《私(わたし、わたくし)》《僕》《俺》《儂(わし)》《余》《吾輩》《自分》《小生》《拙者》《拙》《あたし》《あたくし》《あたい》《あっし》《うち》《わい》《おら》《おいら》《おい(おいどん)》《某(それがし)》《朕》《まろ》《わらわ》《己(おのれ)》《手前(手前ども)》……日本語には実に多様な《自称詞》がありますね。
特に《僕》という自称詞について、塾長は、個人的には、いい歳した男性が公共の場で自分のことを《僕》などと言うのはあまり好きではありません。社会的な無責任をどうか容認してくれ、というような、“甘え”を感じるからです。(刀を取って返して言えば、いい歳した女性が《女子会》などという言葉を自分たちに関して使うことも、社会的客観性を欠いていて、好きではありませんが。)
さて、そうしたなか、最近、新聞の書評欄でこんな本が紹介されていたので読んでみました。
友田健太郎著『自称詞〈僕〉の歴史』。
タイトルに、《一人称代名詞》ではなく、きちんと《自称詞》という言葉が使われていたことも、読んでみようと思った理由の一つです。
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この本によると、時系列に沿って、……
・『古事記』・『日本書紀』
・元禄期の儒者・遊佐木斎、淵岡山(こうざん)
・渡辺崋山
・吉田松陰
・その弟子たる高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵ら
・仮名垣魯文『安愚楽鍋』
・河竹黙阿弥の歌舞伎脚本
・明治20年小学校教科書『日本読本 第二』
・坪内逍遥『当世書生気質』
・二葉亭四迷『浮雲』
・尾崎紅葉『金色夜叉』
・夏目漱石『満韓ところどころ』『吾輩は猫である』『坑夫』『坊っちゃん』『彼岸過迄』
・大杉栄のほぼすべての著作
・高村光太郎『道程』『智恵子抄』
・『きけ わだつみのこえ』(第1集、第2集)
・『戦没農民兵士の手紙』
・連続殺人鬼・大久保清
・映画『男はつらいよ』の諏訪博ら
・三田誠広『僕って何』
・村上春樹のほぼすべての著作
……このような順で、《僕》という自称詞の使用が確認できます。
おおまかにいうと、《僕》という自称詞は、江戸時代以降、連帯感を強めるものから、徐々にフリーランサーのものへと変わってきたらしいです。
さらに、明治時代以降、「高学歴エリート」の自称詞だったものから、徐々に「自由な個人」のものになっていったとのこと。
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また、女性の《僕》の使用は、例外的な場合を除き、タブー視されてきたそうです。
女性による《僕》の使用は、
木村曙
若松賤子
樋口一葉
与謝野晶子
平塚らいてう
川島芳子
林芙美子
田辺聖子
宝塚歌劇
ベルサイユのバラ
リボンの騎士
……と続き、さらにその後、マンガ、アニメ、ラノベ、ゲームなどのサブカルチャーや詩での使用へとつながっていったそうです。
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塾長は考えました。
翻訳小説などで登場人物たちがどんな自称詞を使うかは、その性格づけの点から言っても、非常に大きな影響があるのではないかと。
たとえば、『トム・ソーヤの冒険』の主人公トムが、自分を《俺》《僕》《おいら》《私》……何で語るかで、作品全体の色合いも大いに変わってきてしまうと思います。
もちろん、現実において、一人の日本人が、状況によって自称詞を使い分けるということも、大いにあっていいと思います。というのも、そもそも、我が国の言葉にこれだけ多様な自称詞があるということ自体が、我が国の文化がとりわけ《関係性》によって成り立っている文化であるという証左だと考えられるからです。
こうした我が国の言語の特徴や、我が国の文化の特質は、多様な二人称の《呼称》や、敬語表現の発達といった観点からも語れそうですね。
皆さんも、いろいろと考えてみてください。