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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
先日、国語の文章読解で、蜂飼耳の随筆を読みました。この詩人に独特な、移りゆくイメージの微妙に重なり合う文章の中で、いくつか突出している点がありましたので、授業時に指摘してみました。
まず、鴨長明『方丈記』に深く共鳴している表現。
祖母の死に思いを寄せ、『方丈記』のことを挙げた前後での、
・露に宿る光のような、…
・どこへ向かうのだろうか。
これらはそれぞれ、『方丈記』の「朝顔の露」ですとか、「知らず、生れ死ぬる人、何方より来りて、何方へか去る」ですとかと、重なり合っているといえるでしょう。
それはそうです。
といいますのも、蜂飼耳といえば、光文社古典新訳文庫でまさに鴨長明の『方丈記』を現代語訳している人なのですから。
また、さらに語られる、顔の区別のつかない冬の渡り鳥とは、白鳥のことでしょうから、ここにも死別の旅路へのメタファーが隠されているといえます。
しかもそれは単なる個体の死ではなく、個性の埋没としての死でもあるようです。
よもやシューベルトの白鳥の歌でもないでしょうから、ここでの白鳥は、詩人が専門としていた上代文学の、ヤマトタケルの死出のイメージのほうが近いでしょうか。
そして、深沢七郎です。随筆の中で引用されるのは「流転の記」からの一節ですが、深沢七郎と聞いて誰もが思い浮かべるのは『楢山節考』でしょう。姥捨て伝承と祖母の死出の旅路、さらには詩人自身の死出の旅路が重なり合います。
言葉と思いが、離れていくものや目の前にないものを呼び起こす、と詩人はいいます。
いかにも鳥の渡りを「見知らぬ文字のように」「読み切れない言葉のように」と思い浮かべる詩人らしい、言葉の力、感性の力を信じた結論です。
しかしはたして、死者の側にもまた、言葉は、思いは、あるのでしょうか。
「鳥のごとくに身軽に、ふわりといなくなった」詩人の祖母は、あるいは、ゆく川の流れのように次々と他界へと“転居”した人々は、いま、はたしてどんな言葉と思いを持っているのでしょうか。
いろいろと想像してしまいます。