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対話(Dialogue)か、共話(Synlogue)か。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

夏期講習期間ゆえ、ここ数週間、連日10時間近い授業をおこなっていました。迎え盆の今日は、ようやく久しぶりの休日です。(といっても、半休なのですが。)

 

さて、そんななかでも、塾長は読書をしています。

いまは、ドミニク・チェン『未来をつくる言葉』が文庫化されていたので、読み返しています。

 

文化横断的な学際研究を日仏英のトリリンガルの立ち位置から続ける、著者の肩ひじを張らないクリエイティヴィティのレンジの広さには、感嘆の念を禁じ得ません。

ドミニク・チェンは、自分のこれまでの歩みをこう簡潔につづります。

「わたしはこれまで、表現とコミュニケーションの関係について考え続けながら、生きている人間同士のコミュニティ、生者と死者が交わるインターフェース、そして人と微生物をつなぐロボットを研究してきた。好奇心の赴くままに行ってきたことだが、あらためて振り返れば、家族、社会、自然環境との関係における分裂に抗うための方法を探ろうとしてきた。」

なるほど、表面的には多様な学際研究と見えようとも、根っこのところは“分裂への抗い”としてつながっていた、と。

 

娘の誕生に、自身の死の「予祝」を感じるという感覚。

弔いが寿ぎ(寿ぎという表現は塾長が勝手に言っているのだけれど)でもあるという認識。

共有地(コモンズ)を求めた、対話(Dialogue)とは異なる共話(Synlogue)という方法。

終わりが始まりにつながるという「環」「円環」の構造。

こうしたことは必然的に、ドゥルーズ、ベイトソン、チューリング、(そして、書かれていないけれども、ホフスタッターら)につながるテーマ系だろう。

塾長自身も、大いに共感するところがある。

 

ところで、本書には、「あいちトリエンナーレ2019」での自身らの企画展示についても書かれていた。“情の時代”(情報と感情の意味)という展示コンセプトのもと、タイプトレースによる多数の遺言の上映をしたとのこと。

「あいちトリエンナーレ2019」といえば、公金を使って、“表現”とは名ばかりの似非“芸術”品で、思想(イデオロギー)的に反対勢力のものを不当に貶めた、単なる反日プロパガンダを厚顔にもゴリ押ししたと言える企画、「表現の不自由展・その後」も、同会場にて行われていたはず。

一連の騒動のなかで、ドミニク・チェンらは、分断ではなく共話をというコンセプトから、自分たちの展示を続けたというのだが、では、「表現の不自由展・その後」に関して、たとえば、こうした偏って不当なやり方は分断を生むだけで共在につながらないだろうという意見表明なり何なりを(いや、もっとスマートな方法でもそれは構わないが)したのだろうか。

塾長は、周囲でアンフェアなことをしている者があれば、それに対して苦言を呈するなり何なりすることは、責任や地位のあるインテリゲンチャ―の良識と責務だと思うのだが。

……と、この本『未来をつくる言葉』に関しては、どうせ褒めている書評ばかりだろうから、塾長はチクリと刺してみます。

これもまた、予定調和に環を閉じないための方策。

「よかったね」

  「よかったよ」

「よかったね」

  「よかったよ」

こんな不毛な頷きあいからの脱却こそが、大切なのではないだろうか。

 

さて、文庫化によってコンテクストデザイナーの渡邉康太郎(こちらも絵にかいたようなインテリゲンチャ―だ)の解説が付録されていたので、こちらにも一言。

高村光太郎、谷川俊太郎、ミヒャエル・エンデ、マルセル・デュシャン、松尾芭蕉らを分かりやすく引用して、他者の創作から積極的に(誤読も含め)新たな価値を生み出すことを模索している。

それこそあえて誤読を恐れず言い放ってみるが、誤読や読み替えこそが、新たにして鮮やかな発話の切り口ともなり得る。だから、ここでシガラミ・ゼロの塾長が、あることないこと月に向かって吠えてみることにも、それなりの意味があるのだ。

渡邉康太郎自身が初読時にマーキングして、のちに文庫本の表紙のデザインそのものともなった箇所の引用が、結局はドミニク・チェンの書いた本書のすべてを覆っているコンセプトだろう。

(とすれば、この本は、開く必要さえない。暇のない人は、文庫本の表紙を読みさえすればいいことになる!)

表紙より引用してみよう。実際塾長が本文全体を読んだときも、この箇所が他の箇所から浮き上がって、燦然と輝いていた。

 

結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。[以下略]

 

似たようなことを内田樹(この人物も絵にかいたようなインテリゲンチャ―…。塾長はインテリ、嫌いなんだよ。額に汗してないから。我ながら、了見が狭いな。)も語っていたと記憶する。

このコミュニケーション観は、一見なるほどと思える卓見にも響くが、塾長からすると、疑義が生じる。たとえば、このコミュニケーション観を“夫婦”の間のこととして見てみたとすると、「わかりあえない」ことを前提としていて、ずいぶんと悲観的なものではないだろうか。また、日本と北朝鮮のような“国家”の間のこととしてとらえてみると、そもそもあのような無法者の国家と「共に在ることを受け容れる」必要があるのか、これでは下手をすると、良識のある側が要らぬ譲歩をさせられるだけで、全体としても良い方向には進まないのではないか、という疑念さえ感じてしまう。

はたして彼らのいうコモンズ(これは坂本龍一らも言っていたなあ。彼のレーベルはmusicのmを真ん中にもう一つ入れたcommmonsだったが)は、結局リベラル・インテリたちの絵空事に過ぎないのか、それとも本当に新しい未来を切り開く有効な術となるのか。

塾長は今後を注視していきたいと思う。

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