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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
引き続き、花田清輝のエッセイを読んでいます。
「林檎に関する一考察」(昭和25年)です。
このエッセイにも、岡本太郎が出てきます。
花田清輝に言わせると、岡本太郎は「抽象芸術と超現実主義とのあいだを彷徨しつづけている」のだそうです。
まだ岡本太郎が縄文時代の火焔式土器などに出会っていない頃のことです。
このエッセイによると、抽象芸術の代表は、ポール・セザンヌ。彼は「球体や円錐体や円筒体の観念に魅いられている抽象芸術の信者たち」の一人。
また、超現実主義の代表は、サルバドール・ダリ。彼は「子供や原始人や気ちがい[原文ママ]の作品に血道をあげている超現実主義の使徒たち」の一人。
セザンヌの林檎は、イヴの林檎の系列で、《理知》の林檎。
ダリの林檎は、パリスの林檎の系列で、《本能》の林檎、だそうです。
(楽園を追われたアダムとイヴのイヴ、トロイア戦争のきっかけとなったパリスの審判のパリスです。何のことかよく分からない塾生は、調べてみてください。)
そして、花田清輝の関心は、第3極の林檎、フリードリヒ・フォン・シラーの『ウィルヘルム・テル』の林檎へと向かいます。
テルは、ジャンヌ・ダルクと同様、内部の世界に向けていた眼を、外部の世界に向けて、非常事態を自明の事実としてきわめて即物的にとらえ、対処したという。
キーワードは、《即物的》のようです。
どうやら花田清輝は、テルの林檎は《即物的》な林檎で、社会主義リアリズムの林檎だ、と言いたいらしいです。なるほど、花田清輝は、テルのという人物のなかに、社会主義リアリズムの英雄をみているのでしょう。ダリの『ウィルヘルム・テルの謎』という作品には「社会主義リアリズムの片鱗さえみあたらない」と批判さえしています。
革命前後に花ひらいたロシア・アヴァンギャルドから、スターリンらの徹底した監視のもとでの社会主義リアリズム。
戦後まもない当時(昭和25年)の日本の一部の知識人たちが理想として夢見たまぼろしの一つでしょうか。まったく意味がないとまでは思いませんが、国破れて山河在り、共産主義・社会主義国家の大半が瓦解して久しいいま、社会主義リアリズムなどという観点は、歴史研究の対象にこそなれ、ほとんど無効な観点となってしまっていることでしょう。
花田清輝再読。博覧強記な内容と韜晦趣味の文体は塾長好みでとても面白いのですが、いま読んで簡単に頷けないところもまた多くあります。しかし、読書とはそもそも単なる共感や頷きあいではないので、これもまた充実した体験です。さらに読んでいければと思います。