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間違ってても、魅力的? そんなのあり?

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

塾長は目下、スラヴ文学者・沼野充義による「転形期の前衛—花田清輝とアヴァンギャルド芸術の理論」という論文[平成7年(1995年)]を読んでいます。

 

 

それと、花田清輝のデビュー作「七」という小説[昭和6年(1931年)]も。

「七」は学生のとき以来の再読ですが、まったく覚えていなかったです。

最後辺りまで読んで、漸く、「あ、思い出した! たしかに読んでいた!」となりました。

評論のわざと論旨を錯綜させたかのようなあの韜晦趣味の文章と比べ、小説は読みやすく味わい深い文章でした。七という数字の研究をしているドイツ・ボン大学の私講師の話です。3ヶ所、引用してみます。

・[……]すべて独創的なものは、着物や居間の装飾におけるがごとく、しばしば地味で平凡な様子をしているものだし、のみならず、真の独創とは、学者達にとって、海の向こう側でも、こちら側でも、遂に一種の不具[原文ママ]を意味するに過ぎない[……]

・ぺーテル・ペーテルゼン! 箆棒な!

・僕は非常にこの絵が好きだ。七房の葡萄と七匹の魚と酒の神と。/ それは七に酔って、七の研究に身を捧げている僕へのなんといい挨拶ではないか。僕にとって、七房の葡萄は僕の研究の収穫を、水中の七匹の魚は、僕の研究の自由を、そうして酒の神とは、つまり僕自身を意味するわけだ。

「七」に拘ったのは、花田清輝自身、七高(鹿児島大学の前身)の出身だったからかもしれませんね。

 

 

沼野充義の論文のほうに話を戻しますが、率直で有用な透視図が得られ、こちらも楽しめました。

沼野花田『アヴァンギャルド芸術』[昭和29年(1954年)]における文章を、「諧謔と逆説、皮肉、そして議論を議論として楽しむ文人風の余裕」を持っていて、「並の物書きの場合ならばなかなか両立しそうにない、前衛理論家といかにも日本的な文人という、相反する二つの『焦点』が微妙に作用しあうことによって成り立つ、不思議な言葉の場」を繰り広げていると評しています。

とはいえ、「ソ連がすでに崩壊している現時点から見ると、花田の生きていた時代の限界を感じさせるような、深刻な勘違いもある。それは社会主義リアリズムの可能性に関する、彼のあまりにナイーヴな(もちろん、今からふりかえってみればということだが)評価である。」とも。

そして、「花田の著書は、たとえ研究書としてはもはや評価できないとしても、それ自体がアヴァンギャルド芸術の実践であるような作品としての再評価が必要なのである」としたうえで、次のような価値尺度を披歴しています。

「花田清輝による評論の真価は、そこに書かれていることの正しさにあるわけでは必ずしもなく、むしろ何を目指していかに精神が運動しているかという点にある。」

凄いですね。これはなかなか肯ずることが難しいですね。これらは要するに、花田清輝は、内容は間違っているし、古びているけれども、語り方は素晴らしいよというのにほぼ等しいでしょうか。これはなかなか厳しい。しかし、読んだことのある人には分かるでしょうが(つまり塾長にも分かってしまうのですが)、たしかに、花田清輝の文章には抗いがたい魅力、目眩く魔術があるように思います。困ったことに。

批評としてのアクチュアリティーは時代の趨勢のなかで失われているが、論旨の展開や文体の面白さゆえに、それ自体、鑑賞の対象や批評の対象としては生きている、と捉えれば良いということでしょうか。

 

花田自身もが、アヴァンギャルド芸術の方法について語るとき、自分の執筆するものについて、こんなふうに言っています。

「その方法を、方法であると同時に、方法の適応の結果である芸術そのものとして示すこと」[未来社刊あとがき]

これは、奇しくも、塾長自身が昔に『西風の見たもの』(Ce qu’a vu le vent d’ouest)のなかで、音楽家・音楽学者・哲学者・ヴラディミール・ジャンケレヴィッチの書物に寄せて書いた評言、「音楽について語ると同時に音楽そのものでもあるようなその美しい哲学的かつ文学的な著作」という評言と一致します。さらに奇遇なことに、塾長がこの評文を書いたのも、この沼野論文と同じ、1995年のことでした。(初出:文芸同人誌『半影』第6号)

書架より引っ張り出してみて、さらに吃驚! 何と、塾長自身が昔日に記した『半影』第6号の編集後記には、まさに花田清輝についてが書かれていました。まったく、まったく覚えていませんでした。

「花田清輝が常々考えていたことの一つにも、近代から現代への転形期に関する考察がありました。彼はその転換を、古典力学から量子力学への移行、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へのそれ、一つの中心を持った円の思考から二つの焦点を持った楕円の思考のそれ、などのなかに見て取ろうとしています。[……]」

もう、あの頃から四半世紀以上が経っているということに、茫然自失してしまいます。

塾長はいつまでも似たようなことを考えているようです。よく言えば、ブレていない。悪く言えば、同じことばっかり。最近では、インド洋上の漱石について考えたときにも、この近代から現代、ユークリッドから非ユークリッドのことを応用しましたね。[塾長日記2023/09/07] 第一次世界大戦の頃のフランス芸術について考えたときにも、この二つの焦点を持った楕円を用いてまとめてみましたね。[塾長日記2023/09/18]

 

さらに沼野論文まで話を戻せば、花田は20世紀の芸術家は「物それ自体」への異常な執着を見せるといいます。これは、塾長がエリック・サティらの音楽を《即物性》というキーワードで分析してみると面白いのではないかと言ったことと重なります。[同上、塾長日記2023/09/18] サティ『パラード』(1917年)にはサイレン、タイプライター、ピストル、宝くじの回転抽選器、空き瓶などの即物的な音が多数入っていました。他、サティに限らず、20世紀の音楽には、さまざまな即物的な音が入り込んでいます。

なるほど、20世紀の物質文明が人々にもたらした大量の「物それ自体」(≒即物性)と、20世紀最大の幻想・共産主義国家という理想を掲げるロシア革命を起こしたマルクス・レーニン主義(≒唯物論)とが、かくも親和性が高いのも頷けます。どちらもがこの20世紀という大量生産・大量消費・グローバルな戦争・科学技術・化学兵器などに特徴づけられる世紀の産物なのですから。

しかし、いまは21世紀。共産主義国家の壮大な夢まぼろし(悪夢? 妄想?)の残滓などに惑わされることなく、さらにその先の未来をより良く考えていけるといいと思います。

 

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