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偽善家と露悪家。漱石『三四郎』再再読。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

今年もなんじゃもんじゃの木の白い花が満開です。

駐車場側から見ると、塾の建物の屋根の向こうに、入道雲のようにモクモクと、真っ白な花が咲き誇っています。

 

さて、最近、ゆえあって夏目漱石『三四郎』をまた読み返しています。

 

新たに発見がありましたので、備忘も兼ねてここに語ってみようと思います。

 

高校の英語教師・広田先生は、自分たちの世代を「君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位」で考える偽善家(利他主義)と捉え、若い世代を「自己本位の思想を輸入」して「我意識が非常に発展しすぎてしまった」「露悪家(利己主義)であると論じています。

この一方が他方にとって代わり、また他方が一方に復活していくことで、世の中は進歩すると。

このあたりは、当然江戸期から明治期への大変革との差異は考慮しなければいけませんが、根本的には現代とさして変わらない世代間の価値観のギャップの入れ替わり現象のようにも思えます。 塾長世代の多くは、結婚し家庭を持ち子供がいるなど、当然、社会や次世代に対する責任で動く価値観になっています。それに対し、まだ若い世代は、自分中心に物事を考え、自己実現のために動いている人が多いことでしょう。

 

そしてさらに、広田先生は、こんなふうに大英帝国を批判します。

「英国を見給え。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって、化石化しかかっている。……」

 

これは大変に面白いですね。イギリスに留学して現地の文化文明を肌で感じてきた漱石による、イギリス評です。安定し切った社会では、変革(イノヴェーション)は起こりづらい、と。なかなか手厳しいです。

 

ここで出てくるイブセンとは、『人形の家』ノラなどのことでしょうから、新規の女性像としての《自主自立の女》くらいの意味でしょう。『三四郎』では、美禰子と重ね合わされています。(美禰子は結婚の迷羊ストレイ・シープとなってしまうようですが。)

また、ニイチェとは、《超人思想》という新規の思想の出現くらいの意味でしょう。ニーチェの超人という考えは、実はその多くをドストエフスキーの『悪霊』に依っています。超人ではありませんが、広田先生は、かなり超然としています。

 

そういえば、広田先生を担ぎ上げて工作に奔走する書生・与次郎は、『悪霊』の、スタヴローギンを担ぎ上げて新生国家をつくって実権を握ろうとする野心家・ピョートル・ヴェルホヴェンスキーにそっくりです。(清和天皇を担ぎ上げて一番に傅くことで政治の実権を握ろうとする摂政・藤原良房にも似ています。)

また、与次郎広田先生、ないし、三四郎広田先生の関係は、のちの漱石『こころ』における(上・中の)「私」「先生」の関係にも酷似しています。

 

……こうしたさまざまなことを思いながら、目下、半分ほど読み進めています。とりあえず、ここまでの新入生・小川三四郎には、何ら人間的な魅力が感じられる行動が見当たらず、間違っても美禰子が恋をする理由は見当たりません。恋愛沙汰の筋に関しては、このままでは、そもそも、最初から、三四郎単なる横恋慕に過ぎなかったといえそうです。

 

何にしろ、塾長がこうしたいろいろなことを想像しながら読めるのは、今回であれば、イプセン『人形の家』や、ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』や、ドストエフスキー『悪霊』や、漱石『こころ』を読んでいればこそです。

塾生の皆さんも、兎に角いろいろと読んでおくことをおすすめします。

 

※ちなみに、流石は漱石ですね。

『三四郎』本文中のフランス語、Il a le diable au corps.を、正しく「悪魔が乗り移っている」と翻訳していました。

いまだにレイモン・ラディゲの小説《Le Diable au corps》 『魔に憑かれて』は、多くの翻訳家によって『肉体の悪魔』などというよく分からない翻訳のまま流布しているというのに。

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