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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。
前々回、前回に引き続き、写真をめぐる話です。
いえ、最初は、太宰治の『富嶽百景』から話を始めます。
中2、定期テストの終わった浅間中学校の生徒さんに国語の指導として、『走れメロス』からの発展で、同じ太宰治の『富嶽百景』を用いた読解教材を教えました。
そのなかで気づいたのですが、昭和14年に書かれたこの作品、平成生まれ・令和育ちの彼らには、語彙の面で分かりづらいものが意外と多くあったようです。
・しょげていた(しよげてゐた)(悄気てゐた)
・もっともらしい顔(もつともらしい顔)(尤もらしい顔)
・ことさらに(殊更に)
・甚だ散文的な口調
・物憂そうな
・憂悶
・路傍
・相対峙し
なるほど、我々大人が当たり前にわかる表現も、発展途上の彼らにはなかなかに手ごわい言葉であったのですね。しかも、この作品の末尾を飾るエピソードは、あの有名な、シャッタア、パチリ、の話。これもまた、いまの生徒さんたちには分かりづらかったようです。
都会から来たと思しき知的な若い娘さん二人にカメラのシャッターを切ってもらうよう頼まれた、どてら姿の山賊のごとき主人公。
[…]私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、富士山、さやうなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました。」
「ありがたう。」
ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰って現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく写ってゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。[…]
太宰治『富嶽百景』より
スマホやデジカメが全盛のいまのご時世ではありえないようなエピソードでしょう。現像して初めて写真の出来ばえが分かるなどというタイムラグは、いまの時代には存在しません。
また、そもそも「写真」などといいますが、昨今のカメラは勝手に補正をしたり、加工も意のまま。…現代人はもはやだれ一人として「写真」が「“真”実を“写”し取るもの」などとは思ってはいないことでしょう。
太宰の小説も、「写真」という言葉も、そのどちらもが、そこはかとないノスタルジーを感じさせるものなのでありました。