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洋上の漱石。無限遠点で交わる空と海。

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皆さん、こんにちは。学びの庭・塾長の柳です。

 

唐突ですが、以下の英文を和訳してみてください。

 

The sea is lazily calm and I am dull to the core, lying in my long chair on the deck. The leaden sky overhead seems as devoid of life as the dark expanse of waters around, blending their dullness together beyond the distant horizon as if in sympathetic solidity.[…]

海は怠惰な程に穏やかであり、甲板の長椅子に横臥った余は、躰の芯まで懈(だる)い。頭上の鉛色の空は、周囲の水の暗い広がりと同様、全く生彩がない。空と海とは、遠く離れた水平線の彼方で、固い共感の絆に結ばれているかのように、その鈍重さをともに混ぜ合わせている。[以下略](塾長試訳)

 

いかがでしたでしょうか。

まるで『謎の男トマ』で知られるモーリス・ブランショの不条理小説の書き出しのような文章ですが、何を隠そう(いや、すでに今回の塾長日記のタイトルでほとんど曝露していますが)、これはかの夏目漱石がイギリスに留学する際にインド洋上でしたためた英文だそうです。

とりわけ、英文二文目の後半(和文の三文目)が、面白いですね。非ユークリッド幾何学の世界では、平行線とは無限遠点で交わる二直線のことだそうですが、漱石(≒余)はまさにそのようなものの見方で海と空とを観ています。頭上の空のdullnessと眼下の海のdullnessは遠く水平線のかなたに延長されたその先で、固い共感、——ある種の同盟(alliance)関係、共犯(accomplice)関係——を取り結んでいるのだ、と。

しかし、それは、空と海との共犯というだけではありません。

さらに漱石の英文を読み進めていくと、より一層そのことが分かります。(ここでは漱石の英文と正確な和訳は、訳出困難なため、割愛します。塾長の解釈を補足した概要のみを示します。)

 

余は、空と海の鈍さを静寂のなかで凝視する。静寂に取り囲まれているにも関わらず、実は自分こそがその静寂そのものを生み出しているかのように感じる。

家々も木々も鳥たちも人間どももいないがゆえに、美学的な意味も世俗的な意味も持たない《映像》。その領野にもたらされるもの、すなわち、何もないもの(無)。それとの間に取り結ばれる観照関係。

天国という場でも、地獄という場でもなく、また、いわゆる《この世》という人間存在の中間領域的な場でもない、つまりは、空虚、虚無。

無限と永遠とが綯い交ぜとなった一体感のなかで、一方が一方を呑み込む、この虚無。余はそれと向き合い、それを凝視し、観照しようとする。

しかし、それは、その広大な広がりのなかで、いかなる描出の試みをも頑なに拒むのである。

 

いかがでしょう。ほとんど禅問答のような世界ですね。塾長も概要を訳出・解釈しながら、どうにも理解不能な感覚を抱いています。(専門の諸先生方には、できれば謹んでご教示を賜りたいです。)

とはいえ、ここで分かることは、凝視し(gaze)、観照(contemplation)している者自身もが、空と海との共犯関係を結んでいるということです。この世界では、もはや主体(余)と客体(空と海)の区別もなく、両者は一体化し、空無となっています。

空と海と余の、共感=同盟=共犯関係。それはそうですね。非ユークリッド幾何学においては、互いに平行な二直線mとnから等距離にある点Pの軌跡もまた、無限遠点で直線m・直線nと交わるのですから。

(食パン[空]と食パン[海]に挟まった食パン[余]……。)

つまり、明治というmodernな時代のなかに生きた漱石は、同時に、ユークリッド的世界(近代)から非ユークリッド的世界(現代)へと移り変わるパラダイムシフトのなかに生きてもいたようです。

 

……そうとらえてみるのも面白かろう、というお話でした。塾生の皆さんも、いろいろと考えてみてください。

 

ちなみに、観照(テオーリア、観想)については、昨冬の塾長日記(2023/01/18)に詳しいです。参照ください。

 

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